学振DCと国内PDの結果発表だったみたいですね。


おそらく他の金銭的支援が増えたためだと思うのですが、採択率がかなり下がって15%ほどだったみたいです。

85%が失意のどん底にたたき落とされたと思うと、いささかやりすぎなんじゃないかと思うようになってきた。


僕が修士の学生だった時代、僕は日本のシステムしか知らなかったので、学振=優秀な博士過程の学生=アカデミックな仕事に行くにはほぼ必須のような考え方をしていたし、この厳しい戦いは今後も避けては通れないので万難を排しとりにいくべしなんて考えてました。筆頭著者の論文があったのにDC1に不採用になった時の絶望はすごかったし、DC2に採択された時は1人でめっちゃガッツポーズしたよね。


しかし、海外のスイスのラボに2年半、博士課程中にアメリカに2ヶ月いて、この制度はけっこうやばいDiscouraging なシステムなんじゃないかと思うように意見がシフトしてきた。歳をとりつつ思うのは、あまりに早い段階から優劣をつけすぎている気がするという懸念だ。



1. 学振DC1には2度となれない。


博士課程に進む人は、間違いなく金銭面の不安がある。DC1に落ちた自分もJASSOの奨学金を13万くらい、上限いっぱい借りていた。他の金銭支援がほぼない時代、学振は将来の借金をチャラにする唯一無二のチャンスだった。DC1の人は早くもそれが取り除かれて、DC1というお墨付きがもらえる。申請はM2の春ですよ?それが将来に渡り大きな差を生むなんて正気じゃない。


でも金銭面よりももっと、研究者の能力を否定されたということが厳しかった。テーマがうまくいかず試行錯誤するとDC1には間に合わない。流れに乗った研究室で、言われたことだけやって取れる人もいるように見える(弱小ラボからの視線では)。そういう人たちよりも研究者として劣ってるのかなあと思わされるのが辛かった記憶がある。


次年度DC2になれたところで、DC1にはなれない。三回の申請全てで不採択を表す三振なんていうなんとも不快なワードもあるし、それを機に自分は研究者向きじゃないなどと呟く人もいる。日本では取り返しのつかないキャリアのマイルストーンの一部になっている節がある。

不健全じゃないっすかね。研究者が研究の一次生産物を見ないで初期キャリア(修士〜博士1、2年目まで)と緩やかな相関がある程度のフェローシップですでに階級化を始めるなんて。



2. どこまで行っても研究だけで評価されるべき


海外でも博士課程のフェローシップはある、しかしほとんどの海外の博士課程はPIから雇われているので、学生自身の金銭状況は変わらない。PIが今持つ予算規模以上に博士学生を取りたい時以外はあまり聞かない。かつPIのやりたい研究をやる訳だから、学生がそれで研究費を取ってくるのは予算的に二重取りになりうる。


そんなこんなで、アメリカもスイスも学生がフェローシップを取り合う現象は僕の知る限りではなかった。一方で、それ以外の競争はある。研究アウトプット。すなわち博士在籍中に出す論文の数と質だ。これが非常に重要で、アカデミア志向が強い学生は際限なく実験に邁進し、いい論文を出す!研究プロポーザルの訓練は、質の良い論文を複数持っていれば、ポスドクのアプリケーションやフェローシップなどからで十分に通用するようだ。

なぜ、博士課程が始まる前に評価を与えてしまうのか?研究面でも学振までに何かまとめるとなると、小ぶりな研究が多くなるんじゃなかろうか。



3. 貴重な科学の担い手の85%を絶望に晒す


海外では、博士課程は給料が出る。インドでもでる(博士入学の条件が政府が出す給料を取得することだと聞いた)。さらにヨーロッパでは1-5人ほどのポスドクがいる。それにテクニシャンが部局に数名とラボに1人いたりする。彼らが普通に金銭に問題を抱えず博士課程+ポスドクの構成で研究を邁進する。

一方で、日本は修士の学生が主な戦力。かつそれもインターンや授業で課程の間にどれほど研究しているだろうか。

そんな中、待遇的にネガティヴな意見が溢れている博士課程に進学してくれる学生の半分以上を、学振不採択という絶望に突き落とすのだ。学振に不採択で何くそパワーで成長という話を聞くこともあるが、そういう人は別に学振に落とされなくても成長したんじゃないかと思う。わざわざマジョリティにネガティヴなストレスを与えて、さらに海外のラボとの溝を自ら深くする。


そんなんで科学先進国のあのスピード感と研究の質にかないっこない。。。


4. 学振を取るのを競わせないで、学位取得時の論文の数や質を競え


決して承認欲求で研究をしてはいけないと常日頃から自分に言い聞かせていても、学振不採択はしんどい。かつDC時は受かった人を見てみると、正直納得いかない面も多かった。お金の問題も切実だが、研究成果が十分にない状態での研究員としての将来の資質を否定されることに絶望を感じるのだ。階級を捨て去れ。学振、育志賞、研究費取得歴、受賞歴を学生に与えるのを辞めれば、すべての場所が「研究」で評価されるように回り出す。


論文と研究の本質、それでジョブマーケットが活性化すると思うんだよなあ。学振+受賞ですでに書類の段階で大きな差ができてると思っている人も多いと、その先の競争がなくなってしまう。


フェローシップとか受賞とかはポスドク以上になってからで良いんじゃないか。だって博士課程はトレーニング期間なんだからさ、もっと荒削りでも優劣つけずやらないと人材が萎縮してしまうんじゃない?



お世話になったし、ありがたがってたからあえていう。こんなもんありがたがってるなんて終わってるんだよ。