はぁ。。。また無差別事件ですか。

秋葉原から始まり、京アニ放火、介護施設襲撃、こういう事件の犯人はだいたい社会に溶け込めない社会不適合な人で、家族や友人との繋がりが希薄な場合がほとんどですよね。

もちろん本人が犯した罪は本人のものです、被害者の方々の早い回復を祈るばかりです。しかしながらやはり余裕のない日本の社会と希薄になった人間関係、社会の構造がこういう事件を起こすのは大まかに間違ってないんじゃないでしょうか。

まず、普通の若者が無差別事件を起こすようになったかどうか。

この手の事件は社会構造の不備がこのような若者を作り出したかどうかの議論を巻き起こします。そこで現れる二つの意見が、「犯人が特別にやばいやつだった」のか、「普通の若者だった」のかです。もちろん経歴は恵まれてないことが多いのですが(夢や進学の断念や会社からの解雇、家族からの虐待など)、実際事件を起こすまでは同じような背景をもつ知り合いや若者がいることも多く、精神疾病でもないので普通の若者が無差別事件を起こすという見出しになるんだと思われます。

この論調は大きく外れていない気がする。ではこういう事か、こういう事件が今後も起こされる「不幸な普通の若者によって」。

実際どうだろうか、数学で言うところの対偶をとってみる。無差別事件を起こすのは不幸な若者、に対して幸福な人生の若者は無差別事件を起こすのか?が問いとなる。おそらくそれに該当する様な事件は僕の知るところではない。何かしらの動機が無い事件を一般に「勝ち組」と認識される人たちが起こすことがありえないのだろう。これを鑑みると本人が否定しようが、周りが認めたくなかろうが社会構造と無差別事件には大きな相関がある様に思われる。

この相関を考える上で、卵と鶏の議論がありうる。

「社会構造上の弱者が無差別事件を起こす」のか、「無差別事件を起こす様な人が社会的成功を収められないのか」である。これに関しては、難しい問題だと思うが、一つ言えることは無差別事件を計画する以外は学習障害もない普通の若者である以上は前者だと思う。さらに大体犯人が男性であることからも、勝ち組の定義が社会との関係性のウェートが大きいことの相関がある。本能的な攻撃性の脳構造の性差かもしれないけど、おそらくは男女平等が行き届いていない例の一つであろう。

若者が幸せや希望を抱いて社会活動が健全にできることが予防の重要な課題な気がしますね。

そこで僕のいるアカデミア、博士に行くと決めて25-30中盤で大まかなアカデミックな人生の勝ち負けが見えてきます。助教で旧帝大付近に行けると研究業績が積めて出世コース。任期のない助教やある程度の研究ができる大学につけた生き残りコース、アカデミアでの継続は厳しい敗退コース。

これをある程度の年齢で納得しないといけません。しかし公募を謳うコネ採用や世代間格差、上司が論文を出すのが極めて遅かったり、はたまた出す気もないハラスメント。かつ生き残った人は、それが実力であると認めてもらいたいから熾烈な競走を勝ったと認識される組織づくりをするでしょう。さて、あなたはこれらを納得できるか。そんなこんなで若者は苦しんでる時、助手になるのに論文もほとんど出さなかった時代の先人たちが、定年を伸ばしたり、長い任期を求めて国立大学退職後のヨボヨボおじいちゃんおばあちゃんがあと3-5年ほど任期を伸ばすために私大に着任したりしてます。また、そういう老人異動組の分野の権威に大型科研費なんかあげちゃってさ。お年寄り中心の政策は国政だけにしてほしいですよね。

自分の立場に戻り、海外ポスドクは勝ち組か負け組か。個人の感想ではとりあえず手放しで幸せを感じれるアカデミアの構造ではありませんね。日本に戻れないと聞くし現地の仕事を見つけるのはもっと難しいって何人も言ってますし。

さあ、どうなる我々の世代のポスドクの人生。自殺はちらほら聞くけどアカデミック無差別事件が起こらない間はまだまだ日本の博士-ポスドク事情は健全?笑

(この結びでいいのか?)