選択と集中と白黒思考
自分の周りは博士や修士の時結構病む人がいた。
それを予防するためやなぜそうなったかを理解するために、自分は精神医学の先生たちが書いている本やネットの記事や、この難しい学術界でやまないために情報をたくさん仕入れてきた。メンタル疾患にならないために心がけることとしてよく言われているのが、白黒思考をやめること。白黒思考は「100点以外は0点」と思うことにつながるといい、自己肯定感を大きく下げる。常に良いか悪いかの二元論にしないで、大体のものはいい側面と悪い側面があり良いか悪いかのカテゴリーに入れないほうがいいらしい。
研究を始めて10年、上記のことは十分わかっていても白黒思考に精神がだいぶ侵されている。
例えば、助教公募やポスドクの奨学金の取得。採択か不採択しかないのだ。また、科研費もそうだし、大体10-20%の採択率のなかでほとんどの人は0を突き付けられる。一か所目の日本のポスドクの建物にいる研究者たちはお金があまりまくっていた。競争的資金のほとんどのカテゴリーで、採択されるのでお金は余る、出張、会議、招待講演、報告会、報告書で時間はない。一方、地方の大学で働く友人は金なし、やる気のある学生なし、装置なしの状況で時間は有り余っている。
選択集中で誰かが選んだ重点的課題に食い込めなければ、研究費が取れずその先のやりたいこともほとんどできずに、研究活動が停止して昇進はしないし、助教なら任期切れで雇い止め、ずっと准教授みたいな人がものすごく増えてきている。
この構造的な選択と集中から生み出される明瞭な勝ち組か負け組かがどうしても白黒思考をおもわせる。かなり早い段階で論文-科研費ループに乗らないと研究者として(大学職員としてではない)生き残れないのだ。重要(と言われている)課題に取り組まない限りいけない。これまでのイノベーションやプロジェクトXに取り上げられる大胆かつ時間のかかる研究に時間をつかえない。研究者や一般市民が楽しみにしていたプロジェクトXやプロフェッショナルなどは人間ドラマ、人がその人だからできたことがハイライトされる。課題が設定されて公募されて選ばれた課題にそういう人やストーリーがでてこないのはもうこの10年でだいぶ分かったんじゃないだろうか。
精神的や研究資金面にももう少しゆとりがないと、すでに出来上がった階級の再配列ができないし、これからのキャリア設計の厳しさが常いかなる時も100点を求める白黒思考を助長してくる。そしてアカデミア全体がいびつな精神疾患の様相を呈していないだろうか。
そもそも助教以上の研究者になる段階で十分に研究・教育者としての競争が機能しているならば、もうすこし競争的じゃなく資金を分配したほうが研究力が上がっていくんじゃなかろうか。金がもらえない研究ポジションがかくも多いことに何の意味があるのか、皆目見当もつかない。
研究者だって100点か0点じゃわけられないのに、選択と集中で100点の稀代の天才が見出されて育てられると思い込みすぎてませんかね。とある分野のリーダーが時代をリードできるのは、その人よりそのポジションに適した他の人材がいなかったに過ぎないと僕は思っている。どこかのメディアアーティストが、自身が破壊的イノベーションをしたわけでもそれらの研究者を見出す選考手法のプロでもないのにムーンショットの内容決めたり天才とか持ち上げられている意味がほんとうに分からない。山中先生とかがやるならまだわかるけど。世間で某メディアアーティストのh-indexは10(数年前)ですごすぎる!とか書いてありますが、化学でちゃんとした助教なら大体10超えてますからね。情報はもっと業績出やすいし(国際会議が一般的な業績だから)。山中先生にいたっては120超え、こういう人がたくさんいるのになぜ彼を科学技術の先陣に立たせるのか。。。アートとか本を売る面や金を稼ぐ面や一般市民との交流面が評価されるなら異論はないけど。
白黒で研究者は分けられない青赤緑いろんな色の研究者がいろいろな考え方を議論してすすんでいくほうが精神衛生的にもよかろう。
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