また日本の化学界隈のサイエンスに出ていた論文に不正の疑いがあるらしい。

その論文を見に行ったらサポーティング200p越え、査読者たちが不正を見抜けなくても仕方がないほどの量のデータです。

誰かラボメンバー1人にでも、ランダムに選んだキー反応のいくつかに関して再現実験を頼むことにしておけば、防げたのかもしれません。

最近思うのが、すごい発見のはずのNatureやScienceの結果なのに、ものすごいデータ量をてんこ盛りにする必要はあるのだろうか?

一つの思考実験として、レビューが通りやすいのはどちらか、を考えてみよう。

①一つの化合物を徹底的に調べてすごい物性を示す。

②すごい発見をしてその周辺の化合物を網羅的に少しずつ物性を調べる。

並べてみると②の方が普遍的でインパクトが高い気がする。

しかし捏造が多くなりうるのは、後者であろう。捏造や改ざんは①では、または①を目指すラボの文化では、途中でその発見が真でない限りはいずれ何かしら齟齬のあるデータが出てきてしまう。一方で、特に合成メインの仕事では②はNMRのチャートをズラーっと並べて決めデータの基質選択性やエナンチオ選択性など、他の物性メインの研究より改ざんしやすいデータが多い。必然やらかす人が論文を完成させれてしまう確率が高い。かつデータてんこ盛りで先生及びレビュワーは読む気は失せるのでデータまで詳しくは見ない。というかそういう疑いの目でレビューをする人は僕の周りにはあまりいないみたいなので、だれもそういう可能性まで考慮して見てはいないと思われる。

でもすごい発表ならそりゃあ今後の展開的に追試されるので再現性が取れずに見つかるという流れだろう。なんだかなあ。

つまり捏造があるとしたら、そういう合成メインの研究の割合が高くなるのはしょうがないだろう。構造的な研究不正の排除力の弱さである。合成化学者が多く不正をしているんじゃなくて、不正が後から見つかるとしたらそれは合成化学の界隈の確立が今は高いということだ。

こういうのを聞くと思うのが、論文の綺麗なデータとストーリーだけを見て、やってる人にその実力があるかなどの内面やその人の研究者としての洞察力を見てないんじゃないだろうか。ふつーに一緒に研究してて、不正に手を染める人に気づかないものなのかなあ?

ここ15年で急速に変わった金銭面、ポジション面での学術会の様相。論文数とデータ量の急増、グラフ改竄や画像修正のソフトの普及によって、捏造の巧妙さとそれを見抜く査読の質も悪くなってきている。この論文至上主義の中で、高IF誌の質が悪くなれば、研究コミュニティの崩壊はあっという間であろう。

査読意外に重要なチェック機構に関して、もう一つの問題は、優秀な人材の流出。ラボメンバーに優秀な博士学生がいるだけで、かなりの抑止力になるはずだが、お先真っ暗な博士に行く優秀な人は減った。

日本の化学が危ない。