日本の論文数と高引用論文数がガタ落ちしているのは、あらゆるデータから明らかになってきてます。もう誰も驚きません。


引用数は完璧な研究の評価手法ではありません。よく役に立つとわかっている分野や、流行ってる分野ではかなり研究力と相関しますが、すごく新しいことをやりたい、誰もやってないことをやりたいと思えば思うほど、その論文を引用してくれる人は初めのうちはすごく少ないでしょう。


さらに、最近思う中国の躍進に関して。中国人の論文見るとかなりの確率で半分以上の参考文献が中国人著者のものとなります。さらに彼らは、ものすごい出版数の論文を書きます。一般的に海外での認知が微妙な中国人研究者が旧トムソン・ロイター(現クラリベイトアナリティクス)のHighly cited researcherに入ることだって珍しくありません。


これって、別に中国だけじゃなくて、日本人は日本人を他の国や地域よりもよく引用すると思うし、アメリカ、ドイツだって距離的に近くよく合う研究者の研究をよく覚えているし、ポテンシャルレビュワーにするなら友人の方がいいということで、意図的に同じ国の友人の論文を引くことが多いと思う。


だいぶ昔のブログ記事にも書きましたが、日本の論文数の減少は、トップ大学(旧帝国大学)より補助金配分額が少ない順に顕著に激減している。


これは大学間競争を促進するために導入されたんだと思うのですが、確かに大学間の競争は過酷なものになりました。一方で、トップ大学層の研究を引用してくれる日本人研究者のボリュームゾーンが大きく損なわれた側面があると見ることができないでしょうか。


せめて都道府県に一つ以上は、ある程度お金に困らずちゃんとした研究ができる規模の大学を残しておく必要があったんじゃないかなあと本当に思います。僕がアメリカに短期留学で遊びに行った時に、日本滞在経験のあるチェコ人ポスドクが、日本はアメリカの半分くらいの人口がモンタナ州に住んでるような感じなんだぜって言ってて確かにそうだと驚いた。


アメリカだと州立大学に行けば、だいたい研究ができないなんてことはない。もちろん外部資金獲得によるんだろうけど、日本の2倍以上のちゃんとした研究大学がある。

今年のTHEの大学ランキングでは200位以内にアメリカの大学は50校以上もある。日本は東大京大の2校のみ。いかに留学生が多いアメリカとは言え、この差は人口比で考えると、同程度の人材が日本ではものすごい教育機会の損失があることを示唆していると思う。


大学教員の選考って、出た博士の数に対して国立大学の教員のポジションってかなり少ないと思うんですよね。ちゃんと選考を真面目にやれば、かなり質がいい人材を各都道府県の国立大学に配置できるはずなんです。


でも十分なお金がないことで魅力的な研究ができないポジションであるため、学生は修士はおろか学部卒で就職しちゃったり、魅力の低下でそれなら民間に行くという選択をする若手も増えています。その結果日本の研究コミュニティが引用・論文数ベースでプレゼンスを落とす現状も極々当たり前ですよね。


そして人材は良い教育を求め都市部に集中しちゃう。どれをとっても望んだことではないんじゃないかなあ。なんで集中と選択したんだろう。してしまったのは百歩譲ってしょうがない、だが、なんで間違いを認めて是正しないのだろう。


最近中国人が出したNatureCommの論文の引用文献を見ながらそんなことを思う日曜の午後でした。