ポスドクは論文数とその内容で評価される。

となると誰もが論文を出すことにかなりの比重を置いているだろう。

しかし一口に化学と言ってもその論文の出やすさはテーマによってまちまちだ。例えば有機化学といっても、構造有機化学から天然物の全合成まで論文になりやすさは大きな違いがある。同僚のドイツ人と論文の良し悪しは何で決まるかという話になった。僕もその人も載ってる論文のIFではないことは早い段階で一致した。ではじゃあ引用数なのかと問いかけてみてもお互い何故かしっくりこない。なぜか?

有名になりすぎたら引用はされない、鈴木カップリングするたびに論文が引かれてたら大変なことになるだろう。それとは逆に、新しいこと(真に独創的)と誰も注目してないことかなり近い存在じゃないだろうか。これも全然引用されない。

では何がいい論文なのか、彼はそんなもの数値はないけどわかるだろう?という。確かに、僕とそいつの間では、いいと思う論文の趣味と感じ方は似ている。でもじゃあ何を持っていい論文で、何を持ってそのポスドクの価値を決めるのだろう。そんなこと誰もわからない。でも一つ言えることは数値を使うのは間違いだろう。研究者同士の評価は、ちゃんとした研究者がしっかりと評価すれば、大体みんな同じ結論になるんじゃないだろうか。

と言っても高IF雑誌に載せることはかなりの魅力を感じる。だがしかし、いい論文になりそうだからといって研究方針をコロコロする様になったらどうなのだろう。

誰もが重要と思う世界のリーディングラボがやり始めた研究の類似品を高速で作ってすっぱ抜くことに何の意味があるのか?

とある将棋の棋士である藤井猛九段の言葉を借りれば、そういう論文は「ファミレスの鰻」だろう。本職が一生懸命磨いた鰻屋の鰻より簡単に同じ様なものを出すのである。だがしかし、本職の鰻屋には深みや味わいが全く叶わないのである。同じに見える一報のJacsでも自分の育てた深みのある内容で掲載されなければ、そこまでありがたがる意味はないのではないだろうか?

願わくば、鰻屋のJacsを出そうと思うのであった。あれ、でも僕Jacs出したことねーじゃん。

写真は鰻ではなくノルウェーで食べたサーモン。