最近いろいろ思うことがある。(いや、そんなこと考えてないで目の前の仕事やれって感じですが)


大学の先生のキャリアを見ると、有名から普通から無名の人でも、研究の比重が大きい大学ほどキラッキラの失敗をしていないキャリアだ。

ここでいう失敗していないとは、教授にたどり着くまで良い大学でのポジションをつなぎ、研究結果の論文発表がない期間がほとんどない、という意味である。難しい挑戦を全力で取り組み無残/大成功な結果を残すよりも、コンスタントに結果になることをメインorサイドワークで取り組んだ人の割合が高い。

博士課程、ポスドク、助教、准教授、それぞれの場所で一ヶ所も失敗を許されずに良い結果を出す。これはよく考えればすごく難しいことだ。なので僕もそうだが、難しいテーマとともに堅実な結果になるプランも持つことが多い。

最初は、サイドワークだったバックアッププランも、長期的に難しいテーマで結果が出ないとメインワークとなる。そんなこんなで大きな枠を忘れた研究者が多くなっていやしないだろうか。


えてして偉大な発見は、バックアッププラン付きの器用な生き方とは全くの逆方向から生まれてきた。これは歴史的に見てそうだろう。とことんまで純粋に鍛え抜かれたある種の信念のようなものが道を開く。

例え現状の結果が良くなくても、めちゃクソ失敗し続けてる(けど諦めてない)研究者がいる方が、ほぼわかっていることしかやってない研究者ばかりになるよりかは良いんじゃなかろうか。続々引退の時期が来ている日本がよかった時代に一世を風靡した研究者たちも、最初はスカンピンでスモールジャーナルからじわじわと這い上がっていく人が多かった印象だが、現状はそんな長い目の雇用や評価はない。

いかに素早く器用に失敗しない研究キャリアを積むかが生き残りの鍵となっている気がする。そこに自分ならではのオリジナリティを挟む余地などは到底なく感じる。

研究は失敗がつきものだ。でもキャリアで失敗したくないという思いと研究で失敗したくないという似て非なる失敗の要素が、自分の中で最近ごちゃごちゃになっている。

実験が失敗続きだと、キャリアも失敗する印象を受けるのだ。自ずと成功率の高い実験系にシフトしたくなり、自分が若き日に夢見た研究者像とは違う、情けない日々となっている。


大胆不敵な発想と行動力で、行き詰まりを打破しなければと思った今日この頃。自分のたくさんの失敗を抱きしめて、それを乗り越えた鍛えのある研究者を、もう一度目指そうと思うものである。