ボスとポスドクたちとTwitterの話題になった。

到底SNSに前向きと思えない、物静かでおとなしいボス。そんなボスもTwitterは意外とアクティブに動かしてる。ラボの論文が出た時にツイートしたり、友人の論文にRTやいいねを欠かさずにつける。彼なりの処世術の様だ。

ボスは実際にTwitterはShameless self-promotionだと言っていた。


研究者は、研究というものと芸術をしばしば似たものとして認識することがないだろうか。

共通点は、1)認められなければ職業にすらならない。2)後追いはよしとされず、とことんまでオリジナリティを求められる。3)その割に流行りを生み出してたくさんのフォロワー(影響を受けた同業者)を獲得しないといわゆる一流にはなり得ない。

などなど、自分も研究者と芸術家の暮らしは(実質生活が破綻して暮らせないのに諦められない人が多数出る点も含めて…)かなり性質の似てるものかと思う。

芸術の中でも文芸の面に目を当ててみたい。とある出版社編集者が、ソーシャルメディアはアートを発信するものとして格段に発達したけど、そこから流行りのコンテンツは出てきていないというのだ。

たしかに、いわゆる社会現象とまで言われる作品は、スマホをベースとしたソースでは出てきていない。いまだに流行るものは、書籍やドラマ、映画、印刷版の漫画やそれを原作としたアニメなどだ。

情報社会の発達で、趣味やコミュニティが多様化したため、社会現象と呼ばれるほど注目されるコンテンツがなくなったとの見方もあるが、個人的には情報の氾濫で面白いものを見つけられないのではないかと思う。


それは研究も一緒だ。情報がすぐ手に入りすぎて、オリジナリティ(とまで言えるかはわからないが他にやられてない組み合わせ)を生み出す、それが他者と被ってないかのチェックするのは容易となった。だがこうすればいいよと言うハウツー情報にふれすぎて、深く考えなくても一応研究論文は書けるし、なまじいい論文誌にも基礎的なことすら抑えられていない論文がストーリー重視で載ってしまうこともある。

昔の研究者は、図書館で論文を探して、わからない場所は文献を網羅的に漁ったり、専門書を勉強したもんだ。自分の調べた知識を忘れないようにしっかりと保存する必要があった。今の若手はGoogleScholarさんに聞けば欲しい論文に簡単に辿り着き、欲しい情報しか見ないのに情報に溢れているので謎の万能感や自己肯定感を感じてる節があるまいか。

ソーシャルメディアや検索機能に頼りすぎた研究者から、偉大な研究が生まれるか。芸術と似ているのなら、あまり期待はできないと思った。

ソーシャルメディアをプロモーションに使うのはいいが、あまりソーシャルメディアや流行を意識するのはどうなんじゃろうか。と思うおっさんポスドクでした。