ノーベル賞ウィークだけ一般人が科学研究を誇りに思って盛り上がるのは日本の悪癖である。

日本人の2年連続の受賞なるか?という見出しの記事を見つけた。



はて、真鍋博士はアメリカ人で研究結果もアメリカでのものだ、何をもって日本すげえと喜ぶのだろう。はるか昔、東大を卒業した彼は研究ができるポジションがなく、アメリカに渡り先端的技術であったスパコンを使いこなして大気モデルの研究をする。そしてめきめきと頭角を現したのち何度も日本に招致するが、なんか結局なじめずに結局アメリカで研究をしてアメリカ国籍を取ることを選んだのである。


日本は彼の研究に関して何もしていない。まぁ、東大の教育がすごいと言われればそうかもしれないが、その後の研究と教育って実際あんまり相関がないと思う。そんなこんなで、真鍋博士を日本人ノーベル賞にカウントするのはいかんのじゃないか。また、昨年の化学賞のベンジャミンリストが北大の招致教員であるのを大々的に報道しても、その結果はドイツで行ったものであるのは揺るがない。


すごい先生に金を払ってきてもらうのも確かにノーベル賞受賞者の数を増やすことはできよう。だが、それを喜ぶのでよいのだろうか。


それに付随して、ノーベル賞級の化学賞候補にしばしば上がる先生たちは特別教授などとして特別に定年以上に教授として働けるうえに大型の科研費を続けているのを目にする。アメリカを見習ってそういうシステムを導入したようだ。


素晴らしい研究者たちが定年退職を気にせず研究を続けられる点を見れば素晴らしいが、アメリカと違い日本はアカデミアの若手ポジションは減少し基盤研究費の削減で苦しむ大学がほとんどだと思う。そこでノーベル賞級とはいえど定年以上に雇い続け、これまでの業績に由来する科研費の追加分配はさらに新しい研究の目を積むことになるんじゃないのかなあ。


もちろんすごい先生たちなのはわかっている。だが、これまでの研究よりもこれからの研究にもっと目を向けてほしい。そういう思いをいつも抱くノーベル賞ウィークが始まる。


ちなみに僕の予想が当たったことはない。