スイスポスドクもだいすきスラムダンクの作者:井上雄彦氏の未完の名作「バガボンド」


宮本武蔵の生涯を圧倒的画力で描く漫画です。佐々木小次郎の耳が聞こえないというなぞに改変されている部分を除き大好きです。


関ヶ原の戦いが終わり、一気に居場所を失った武芸者たち。戦国時代がおわる激動の時代に日本一の剣豪を目指す武蔵が真剣勝負の名のもとに有名な剣士たちをバサバサと切り倒します。


そんな旅の中でたちよる名高き柳生家の最強とうたわれたおじいちゃん柳生石舟斎。その最強の剣士に武蔵が天下無双とは何か問うた時に言われる言葉が「天下無双とは言葉だ」。天下無双というものなどは存在しなくてそれにとらわれているうちは、本当に大切なものが見えていないという指摘である(と勝手に理解している)。天下無双という言葉が意味するものを追い求める苦しさに押しつぶされそうになりながら、その実何を求めているのかが見えない。


そこで出てくる回想が武蔵の父親である新免無二斎の存在。父親は天下無双であることを追い求め、誰より強いということを生きる上での誇りにしていた。また、その後に出会う伊藤一刀斎という強烈な勝ちへのこだわりを見せる剣士など、天下無双に執着する武芸者との出会いが「誰か」より強くなるというのはつまり他の評価軸を常に気にして、本当の武の極みから目をそらされているということを暗示している。


何が言いたいか、つまり、研究業績に関してもおんなじではないか(さすがに無理があるか)笑


助教ポジション、競争的資金、それらの短期目標を見て、生き残りたい場合、これまでの採用者たちの平均の業績(とコネ力)をのりこえれば実質的に生き残ることができる。若手のホープになりたければ、ぶっちぎりの論文などの結果が必要だが、その条件だってほかの人がいるから決まる数字だ。

天下無双とまでもいわずとも優秀な研究者なりトップレベル研究者なりを目指すことが上記石舟斎殿の指摘に通じ、盲目のうちに自分の目標としていた研究が本来天井がないものから目に見えた数字になる。いい研究者になろう、その心意気がいいものを目指すように見えて自分の可能性を狭める行動になるんじゃないか。


あそこのだれだれよりはいい研究してるし論文もあるから生き残れるはず。とか考えてしまいがちな僕。本当は研究って武芸と同じで比べられない、ただ公募や助成金の勝負で殴り合うとどちらかが生き残る、それで生き残ることで承認されて気が緩むこともあるだろう。実際討ち死にのように散る人も多く剣豪さながらの厳しい世界である、どこまでも勝負で勝ち続けて生き残るには天下無双を目指したくなるのだ。誰かと比較したりされたりすることばかりだ。


本当はもっとそういうことにとらわれずに、研究の深淵を覗いて「誰か」がいない世界に没入しない限り、研究の真の極地は見えないまま年を取るだけなのかもしれないと思うのである。


論文が通ったり特任助教の内定が出たりしたことで、少し安心した自分がその安心が他人との比較からくることに気が付いて記した。


いい研究とは言葉だ、戦いの螺旋から私は降りるぞ。

うまく書けないけどそういう感覚。いい研究を目指さない、それが研究者には重要なんだと思う。



天下無双どころか言葉を一切持たないない最強の剣術家「佐々木小次郎」。そういう意味での対比のためもあって耳が聞こえない設定なのかもしれない。休載中のバガボンド、巌流島のクライマックスはいつくるのか?

表現が難しすぎて筆が進まないのもわかるけど、続きが読みたいので井上先生何とかお願いいたします。笑