リスクを取るならフェアーな評価が欲しい
昨日の続き、リスクを取って大学研究者を続けることに芽生えた一握の違和感。
最近、研究者として評価されるのが、ものすごく嫌になってきた。いや元々嫌いだったけど、人生に支障の出るレベルで嫌になった。
最近の流れだと一生懸命にやるより、適当に切り上げた方が早く終わるし論文の本数も増える。難しいことに取り組むと、納得いくまで実験をした方が論文をだすのが遅くなる。一方で無知な人の方が、これで良いや、どーーん!って言った感じで物おじせず(くそ)論文を出すことができる。
言い過ぎかもしれないが、研究をちゃんとやると「研究者」として生き残れないと言う矛盾がある気がしている。どんどん論文を出さなければ生き残れず、アイデアを考えるために使う時間なんかない。
最初はそれでもよかった、というかわかっていなかった。もっと修行を積めば、研究者としての能力が上がっていき、研究というものがもっとわかるし、そしてそれにつれて周りからの評価も上がるものだと思っていた。
じゃあ研究業績を積めば良いかと言われると、そうでもなかった。化学では未だに助教は先生の助手で、結果があってもこのラボには適さないのひとことで、なんの業績もないような人に負けることだってたくさんある。
こんなことがしたい!って一生懸命に語っても、なんか我が強くて一緒に働きにくそうと思われることだってあるだろう。
ヨーロッパだと外部のコミッティーや学生や他の候補者も選考に参加するので、もう少しフェアーな人事が行われている。日本の1人の教授が全権持って自分のラボの助教決めちゃうことが大変なストレスになってる。応募を始めて気がついた。
研究者の生き残りにおける研究の割合と評価に関する疑問が限度を超えた。そう言うことなんじゃないかと自己考察している。
そんならスタートアップやフリーランスで働いた方がまだ自分のもう少しフェアーに評価してもらえそうだと思ったのである。もちろんどこにでも人間関係はある、でも大学ほど歪な評価が横行してる場所は探してもそうそうないんじゃないか。
てな感じで、自分が上手くいきそうにないのを、自分ではどうしようもできない言い訳のせいにしようと、文句を言う対象を探し始めた時点で、もうダメなのかもしれないと思ったのであった。
智に働けば角が立つ、情に棹をさせば流される、意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
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