一か所目のポスドクをしてた建物には定年退職した先生が無給の特任教授として在籍していて、週に1~2日の頻度で研究を細々と続けるために来ていた。

その先生はもうとっくに定年で引退した、おじいちゃんくらいの年齢なのだが、偉い先生であり自分の分野で知らない人はほとんどいない。ノーベル賞受賞者のお友達もいる国際派の老教授だ。

何の縁か、建物の若手研究者(日本の現状のわりには生きのいいポスドクや博士学生たち)4~5人と半年に一回の間隔で予約の取りにくい居酒屋を随分前から予約して、年に2回ほどの交流会(ただの飲み会)をしていた。先生は若者と飲めるのを楽しみにしているようで、専門性の若干の違いから研究の話はそこまでディープにはならないのだが、研究者の生きざまについて大切なことを教えてくれた。現役ですごくえらいバリバリの教授たちがはなたれ小僧だった時にすでに分野をリードする存在だったので、自分たちの指導教授たちの若かりし頃の話とかも聞けて面白かったりする。

お歳なのでしょうがないのか、もう話したのを忘れているのか、大事だから何回も伝えるのかもしれないが、毎回される話がある。

それが、日本のお山の大将のような教授にはなるな。という話。

はるか数十年前から欧米の研究室はPIと呼ばれる教授、准教授、助教のうち一人が先生としていて、残りはポスドクと博士課程の学生で構成されるようになった。一方で、日本ははるか昔に海外から導入された、教授の下に助教授助手二人という構造の研究室運営が長らく続いていて、いまだにその構造のままの研究室が研究大学ほど残っている。

数十年前のとある国際学会でのことである、プロジェクターとパワーポイントになる前のOHPの時代の国際学会での発表。ほかの外国の先生方は自分でスライドを入れ替えながらしゃべっている中で、とあるO大学の教授は連れてきた助手に自分のしゃべるのに合わせて完璧なタイミングでスライドを入れ替えさせて発表をしていたらしい。さながらエジプトの奴隷とファラオのごとく。研究は大したことないし、その助手に対する高圧的な態度と国際感覚の欠如をみてひどく恥ずかしかったという内容だ。

その老先生は研究所の教授だったため、日本の中でも例外的に小さい研究室で業績を上げてきた。研究室は比較的自由な雰囲気だったようでのびのびと研究して次のラボに移ったメンバーも多くみられる。しかしどうやらその後、その先生のラボ出身者は先生が納得いくほどの研究を行えたものはいないようだ。行った先の大将とそりが合わないか、言いなりになってしまうかで存在感を示せなかったようだ。

悲しいかな日本の若手は、お山の大将のもとで他人のふんどしで必死に相撲をとらないと駄目な場合が多いのかも?


なんでこんな話が今になり引っかかっているんだろう。最近、娘に会いたすぎて日本に帰ることを意識し始めたからかもしれない。これまで教わってきた先生たちから、できるだけ独立ポジションで帰国することを薦められている、そんな公募、ここ一年で化学全体でみても一体何個出ていただろうか。。。

日本の大将のもとに助教という奴隷でポスドクよりさらに苦痛な日々をもう5-10年延長させるのと、アカデミアに固執する利点を天秤にかけ始めている気がする。

もう一つの懸念はそういう偉大なる教授が力を持っていたのに、アカデミアは全体とし奴隷制度な風潮が改善されてないということだろう。教授にさえなれば、、「次は自分が奴隷を使うんじゃい」、という人が日本には多すぎるんじゃああるまいか。

いつかまた、先生と中堅になった若手たちでゆっくり飲みたいな。若手側は何人生き残ってるかな、すでに一人はもうすぐアカデミアを去りそうだ。